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東京高等裁判所 平成7年(行ケ)280号 判決 1998年9月29日

主文

特許庁が平成六年審判第一三三七二号事件について平成七年五月一九日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

理由

一  請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、同2(本願第一発明の要旨)及び同3(審決の理由)については、当事者間に争いがない。

そして、同二頁一八行ないし六頁四行(引用例の記載)、同六頁五行ないし七頁五行(一致点、相違点の認定)のうち、六頁一〇行「両者は、」から二〇行「る。」まで(一致点の認定)を除く事実、並びに、同七頁六行ないし八頁一行(相違点についての判断)のうち、相違点(1)についての判断は、当事者間に争いがない。

二  原告主張の取消事由(引用例に記載された発明が未完成である旨の主張)の当否について検討するが、まず、本願第一発明の内容及び引用例の記載内容についてみた上、引用例に記載された発明の完成の有無につき判断することとする。

(1) 本願第一発明について

甲第二号証によれば、本願明細書には、本願第一発明、及び特許請求の範囲第一一項の発明に係る〔技術分野〕、〔従来技術〕、〔技術課題〕、〔解決手段〕及び〔効果〕について次のように記載されていることが認められる。

〔技術分野〕

「本発明は、体液中の唾液アルファアミラーゼとともに膵液アルファアミラーゼを特異的に定量する方法および試薬に関する。」(六頁一七行ないし一九行)

〔従来技術〕

「大多数の患者では、体液、例えば血漿、尿または十二指腸分泌物中のアルファアミラーゼ含分が著るしく変動する。しかしながら、体中には大体において二種のアルファアミラーゼ酵素、すなわち膵液酵素および唾液酵素が存在する。診断学的に重要なのが膵液酵素であるので、これら二つの……アルファアミラーゼを分析により識別するという課題が課せられる。この場合の難点は、二つの複合形態が類似の構造を有しかつ免疫学的に同じであることである……。唾液酵素の活性を除去するため、陰イオン交換体への吸着、小麦蛋白または電気泳動ないしは電子線照射……による阻止を使用することが公知である。しかしながらこれら方法は、その分離効果が不十分であるか、または定常的診断に費用がかかりすぎる。前記方法のうち、クリン・ケム(Clin.Chem.)第二八巻第七号、一五二五~一五二七頁(一九八二年)に記載された、麦芽から得られた阻止剤による唾液形酵素の阻止法だけが、定常的診断に許容可能な時間的費用を有するが、但し選択性が不十分である。また最適阻止濃度において、唾液形酵素の活性度の約一三パーセントが維持されたままであるとともに、膵液中酵素の活性度が約八一パーセントに低減される。すでに従来の未公開欧州特許出願第八四一一四一七二、四号には、唾液アルファアミラーゼと反応しかつこの場合膵液アルファアミラーゼに対する混合反応率……五パーセントまたはそれ以下を有するモノクロナール抗体の存在において作業することにより、唾液アルファアミラーゼを除く膵液アルファアミラーゼを定量することが提案されている。また、このモノクロナール抗体とともに沈澱用試薬を添加した場合、唾液アルファアミラーゼとの不溶性錯体を形成することが可能であり、この錯体は溶液から分離することができ、従って膵液酵素だけが溶液中に残存しかつそこで定量されることができる。さらに、不動化せる形のモノクロナール抗体を使用しかつこの方法で唾液アミラーゼを分離することが可能である。しかしながらこれら二つの場合、不溶解相を形成しかつ溶解相と分離する必要がある。」(七頁八行ないし九頁一四行)

〔技術課題〕

「従って、本発明の根底をなす課題は、これら欠点を除去し、かつ、体液中の唾液形アルファアミラーゼを除く膵液アルファアミラーゼの迅速、簡単かつ確実な定量を、この場合相分離を実施する必要なしに可能にする方法および試薬をつくり出すことである。」(九頁一六行ないし一〇頁一行)

〔解決手段〕

「本発明によれば、この課題は、体液、とくに血漿、リンパ漿、十二指腸液または尿中の唾液アルファアミラーゼを除く膵液アルファアミラーゼを、唾液アルファアミラーゼと反応するモノクロナール抗体の存在においてアルファアミラーゼ検出用組成物と反応させることにより特異的に定量するに当り、唾液酵素を特異的に阻止するが、但し膵液酵素を五〇パーセント以上阻止しないモノクロナール抗体を使用することを特徴とする方法により解決される。」(一〇頁三行ないし一二行)

〔効果〕

「本発明は、体液中の膵液アルファアミラーゼを唾液形のアルファアミラーゼを除き大きい特異性で簡単かつ迅速に定量することを可能にし、従って臨床診断の方法を改善する。」(一九頁五行ないし八行)

(2) 引用例に記載された発明

<1>  甲第六号証によれば、特許請求の範囲第一項を「異種の多成分アイソザイムを含む試料中のアイソザイムを分別定量するにあたり、一つの型のアイソザイムだけを特異的に阻害する性質を有するモノクローナル抗体でその活性を特異的に阻害し、他の型のアイソザイム活性を特異的に測定することを特徴とする、アイソザイム分別定量法。」とし、特許請求の範囲第三項を「アイソザイムがヒトα-アミラーゼの唾液腺型と膵臓型である特許請求の範囲第一項記載のアイソザイム分別定量法。」とする特開昭五八-一八三〇九八号公報(引用例)には、その〔技術分野〕、〔従来技術〕、〔知見〕及び〔効果〕について、次のとおり記載されていることが認められる(一部は、当事者間に争いがない。)。

〔技術分野〕

「本発明は、異種の多成分アイソザイムを含む試料中のアイソザイムを分別定量する方法に関するものである。」(一頁右下欄二行ないし四行)

〔従来技術〕

「近年タンパク分画技術の進歩により、従来均一と考えられていた酵素が幾つかの成分に分離されることが明らかとなった。例えば、……α-アミラーゼにおいては唾液腺型(S型)と膵臓型(P型)が……確認されている。又、これらの研究から、臓器、細胞分画の種類によってそれぞれ特徴的な異種のアイソザイムが存在することが明らかとなってきた。このようなアイソザイムの組織特異性は生体内の代謝調節などと関連して生理学上の重要な研究課題を提供してきたが、一方で血液中のアイソザイム分析は病変部位の推定に有力な手懸を与えることから臨床病理学的に極めて興味ある課題となり数多く研究がなされてきており、現在においては血清アイソザイム分析は臨床検査の一つとして重要な位置を占めるに至っている。」(二頁左上欄一行ないし右上欄六行)

〔知見〕

「本発明者らは、アイソザイムの分別定量に関し鋭意研究の結果、アイソザイムに対するモノクローナル抗体(以下、MCAという。)が一つの型のアイソザイムだけを特異的に阻害し他のアイソザイムに対しては全く影響を与えないことを発見し本発明を完成するに至った。」(二頁右下欄一九行ないし三頁左上欄四行)

「本発明者らは、特定型のアイソザイムを抗原にして免疫したマウスの脾臓細胞とマウスのミエローマ細胞を細胞融合法により融合して抗体産生ハイブリドーマが産生する抗体(モノクローナル、MCA)について交叉反応性を調査したところ、意外にも数多くのハイブリドーマの中に特定型のアイソザイムとのみ結合し他の型のアイソザイムには全く影響を与えない抗体を産生するハイブリドーマが存在することを発見し本発明を完成するに至ったものである。」(三頁右上欄一一行ないし左下欄三行)

〔効果〕

「本発明方法の利点は一方のアイソザイムにのみ特異的な阻害剤を使用することにより、極めて容易な操作で完全な分別定量ができる点にあるが、さらに、従来の免疫阻害法に比べて有利な点は、従来法で使用される抗体(ポリクローナル抗体)に於てとは抗原抗体複合物が沈澱として析出するため生じた沈澱が吸光度測定に影響を与える他、殊に自動分析装置に於てはパイプラインのつまりの原因となり検査の妨げとなるが、本発明方法で用いるMCAでは抗原抗体複合物が可溶性であるためこのようなトラブルは一切発生しない。更に、製造する場合に従来の抗体では抗原を動物に免疫して抗血清を得るが、免疫に使用する抗原のロット差、動物の個体差によってできた製品の品質が変動するが、MCAでは一定のハイブリドーマで一定の条件で生産するため品質上ロット間差は殆んど無く常に安定した品質の製品を供給することができる。」(五頁左上欄五行ないし右上欄五行)

<2>  これらの記載によれば、引用例に記載された発明は、特定型のアイソザイムを抗原にして免疫したマウスの脾臓細胞とマウスのミエローマ細胞を融合せしめて得たハイブリドーマが産生する特定のモノクローナル抗体(以下「引用例モノクローナル抗体」という。)を用いることにより、特定型のアイソザイムの酵素活性のみを、容易な操作で特異的に分別定量できるものであることが認められる。

<3>  そして、甲第六号証によれば、引用例には、〔実験例〕として、次のとおり記載されていることが認められる。

「ヒト唾液より常法により分離精製したS型α-アミラーゼ一〇〇ミクロングラムをFCA(注・完全フロイントアジュバント)と混合して得たエマルジョン〇・五ミリリットルをBALB/C系マウスに免疫し、更に二週間後に二回目の免疫を行い三~四日後に脾臓より取り出して脾細胞をRPMIに浮遊させた。一方、マウスミエローマ細胞(NS-1)を別に培養して得た細胞のRPMI浮遊液……を用意し、前記の脾細胞浮遊液……と混合した後、四〇〇×グラムで五分間遠心分離して上清を除き両細胞の混合した沈澱を採取した。

沈澱に、五〇パーセントポリエチレングリコール溶液一ミリリットルを、三七度F、一分間にわたってゆるく撹拌しながら加えて、両細胞を融合させた。

その後、RPMI一五ミリリットルを徐々に加えて反応を停止させ、RPMIで二~三回洗浄(四〇〇×グラム、五分間)、融合細胞を得た。

上記の融合細胞を牛胎児血清一五パーセントを添加したRPMI培地に浮遊させてその浮遊液の〇・一ミリリットルずつを九六穴の組織培養プレートに入れ、更に二四時間後HAT培地〇・一ミリリットルずつを加えて培養を行った。

その後、培養二、三、五日目に数回HAT培地の交換を行いながら培養を続け、一〇日目以後はHT培地で数回培養液の交換を行い一四日目に各培養液上清を取り抗原感作羊赤血球と反応させて凝集の有無から抗体を産生している細胞群を選びだした。

各抗体産生細胞群を組織培養プレートに移し胸腺細胞を加え、一五パーセントFCS加RPMIFで培養を行い、培養上清のS型α-アミラーゼ阻害活性を調べ阻害活性のある細胞群を選び出した。

同様のクローニング操作を繰り返して行いS型α-アミラーゼに対するMCA産生ハイブリドーマを得た。

上記ハイブリドーマを培養し約10〔10の6乗〕~10〔10の7乗〕個の細胞をマウス腹腔内に移植、二~四週後に貯溜した腹水を採取した。

腹水を硫安分画法により分画して〇~五〇パーセント分画の沈澱を集め生理食塩液に溶解透析して抗体液を調製し以下の実験を行った。」(三頁右下欄一一行ないし四頁右上欄一六行)

「S型とP型のα-アミラーゼに対する上記の抗体の阻害効果を調べた結果を次表に示す。

…略…

S型及びP型のアイソザイムの含量の異なる各二種の試料に於て抗体の添加前後の酵素活性を比較した結果S型アミラーゼを含む試料一、二に於ては抗体の添加により活性は完全に阻害された。

一方、P型アミラーゼを含む試料三、四に於ては抗体を添加しても活性はほぼ一〇〇パーセント残存した。」(四頁右上欄一七行ないし右下欄八行)

(3) 引用例に記載された発明の完成の有無

原告は、上記引用例の実験例を追試しても、引用例モノクローナル抗体は得られないから、上記実験例に再現性はなく、結局、引用例に記載された発明は未完成であると主張するので、以下、この点について検討する。

<1>  引用例の実験例の追試結果について

(a) 甲第一〇号証によれば、ヴュルツブルク大学ウイルス学免疫生物学研究所のアンリース・シンプル教授の宣言書には、一九九六年(平成八年)ころ行われた引用例の実験例の追試結果について、「前記の試験、特に最後の試験は、和光の実験記録に従って得られたハイブリドーマが単に唯一の阻害的クローンを生産するにすぎないことを示す。しかしながら、このクローンは膵臓α-アミラーゼと唾液α-アミラーゼとを容易に判断できるほど区別をつけない。一つのアイソザイムを他のアイソザイム以上により一層強く阻害するとはいえない。」(二〇項)、「前記のように、和光の実験記録を変えても、結果は判断できる程に変わらなかった。宿主が免疫原に反応する時間の長さを延長しても、所望なmAb(注・モノクローナル抗体)は得られなかった。私の見解によれば、実験記録のいずれの工程を変更しても、そこで得られた結果を実質的に変えることは期待されないであろう。更に、実験記録を変更して阻害的モノクローナル抗体を獲得するためのチャンスを改善する方法を研究者に示唆するものはこの文献中には何もない。実際、私は阻害は結合とは異なることを指摘しなければならず、かつ阻害的mAbを有利に得ることに成功したことを主張する刊行されたリポートも知らない。」(二一項)の記載されていることが認められ、これらの記載によれば、シンプル教授は、引用例の実験例を追試したが、引用例モノクローナル抗体の特異性と同様の特異性を有するモノクローナル抗体を作成できず、一部条件を変えて追試しても同様であったことが認められる。

(b) 甲第二一号証の一によれば、免疫学者であるクルト・ウォルター・ナウヨークス博士の宣言書には、一九八六年(昭和六一年)ころ行われた引用例の実験例の追試結果について、「和光の日本国特許出願の翻訳文を入手した後、私はこの出願に記載されているプロトコールを正確にたどってみました。しかし、得られた結果は上記特許に記載の結果と一致しませんでした。私の実験の結果をここに添付いたします。」(四項)、「これは驚くべきことではありません。なぜならハイブリドーマの作成は予測不可能な分野だからです。これが、仮にあるハイブリドーマが有望な特性を示した場合、直ちに培養され、増殖されている理由です。なぜなら、同じ条件下でプロトコールを繰り返しても、この細胞系が再生産される保証が全く無いからです。」(五項)と記載されていることが認められる。

そして、甲第二一号証の二によれば、上記宣言書中の「私の実験の結果」には、「上記の特許公開の第二〇段……において、和光は特異的に唾液腺アミラーゼのみを認識するハイブリドーマが予期しないほど大量に得られる、と記述している。我々の実験では、これは事実ではない。血清の交差反応は約九五パーセント~一〇〇パーセントであった。試験したすべてのハイブリッドについて、一次培養物における交差反応は、まれに八〇パーセントを上回った。クローン化……によっても、我々は膵臓アミラーゼに関する交差反応が八〇パーセントより良好なハイブリドーマを単離することはできなかった。」(原文一頁下から一五行ないし三行、訳文一頁下から七行ないし二頁二行)と記載されていることが認められる。

(c) 甲第二五号証によれば、株式会社免疫生物研究所の実験成績書(平成九年実施)には、引用例の実験例に倣い、六匹のマウスを唾液α-アミラーゼで免疫し、三九四八ウエル中からELISA(酵素免疫測定法。引用例の実験例で使用された方法より高感度なもの。)によって、唾液α-アミラーゼへの反応性は高いが膵液α-アミラーゼに対する反応性は低い三つのハイブリドーマ(識別名:二〇-一、二〇-二、三五)を選択し、これらのハイブリドーマ三ウエルを二四穴培養プレートで増殖させ、その上清について再びELISAにより検定を行ったが、唾液α-アミラーゼと膵液α-アミラーゼに対する反応性に有意差はなく、また、その他のウエルの中で、唾液α-アミラーゼに対して反応性を示すハイブリドーマは、膵液α-アミラーゼに対しても同様の反応性を示し、唾液α-アミラーゼに対してのみ特異的なハイブリドーマは見いだし得なかったこと、さらに、二つのハイブリドーマ(二〇-一、二〇-二)について、酵素活性阻害試験を行ったが、唾液α-アミラーゼの酵素活性及び膵液α-アミラーゼの酵素活性のいずれをも全く阻害しなかったことが記載されていることが認められ、この記載によれば、平成九年に行われた株式会社免疫生物研究所の追試実験においても、引用例の実験例の追試に成功しなかったことが認められる。

<2>  モノクローナル抗体の再作成の困難性について

(a) 甲第一九号証によれば、東京大学農学部上野川修一教授の鑑定書には、「意図的に全く同じモノクローナル抗体を取ろうとしても極めて困難です。原理的にも全く同じモノクローナル抗体を作成するのは極めて難しいと言えます。厳密に言うと、あるモノクローナル抗体は、ある抗原のエピトープを認識しますが、全く同じアミノ酸配列を認識する数多くのモノクローナル抗体が存在します。すなわち、同じ抗原を認識するモノクローナル抗体であっても、結合するパラトープの構造の違ったものが沢山存在するわけです。抗体の遺伝子は、10〔10の10乗〕個あるともいわれていますから、この遺伝子の中から抗原に合ったものを選び出すのは、海の中から所望の遺伝子を選び出す様なものです。従って、同じモノクローナル抗体が取れる可能性がないとは言えませんが、非常に低いと言えます。」(一頁答一)と記載されていることが認められ、この記載によれば、一度作成したモノクローナル抗体と同じモノクローナル抗体を繰り返し作成することは、原理的にも難しく、実際的にもその可能性は極めて低いものであることが認められる。

(b) 甲第一八号証によれば、北海道大学小野江和則教授(北海道大学免疫科学研究所所長)の鑑定書には、引用例の実験例について、「現在でもそうですが、上記した明細書に記載されたヒト唾液腺型アミラーゼには、一〇〇パーセント反応するが、膵臓型アミラーゼには全く反応しないというような特異性が極めて高いモノクローナル抗体を産生する細胞は、非常に膨大な数のハイブリドーマをスクリーニングして偶然にしか得られません。このような特異性の高いモノクローナル抗体が得られたということは宝くじに当たったようなもので全く僥倖だったといえます。当時、このようなモノクローナル抗体を作成したとすれば、それは技術というより名人芸のようなものだったと思います。」(一頁答一)と記載されていることが認められる。

(c) また、前記甲第一九号証によれば、上野川教授の鑑定書には、引用例の実験例について、「両アミラーゼは、同一の酵素に分類されますから、その活性部位が同一または極めて類似している可能性が高いと予想されます。そうだとすると、アイソザイムの一方を一〇〇パーセント阻害し、他のアイソザイムを全く阻害しないというようなモノクローナル抗体が得られるのは、上記した理由から非常に珍しいことと思います。また、抗体産生に使用したマウスには、ヒト唾液腺型α-アミラーゼおよびヒト膵臓型α-アミラーゼのアミノ酸配列と類似したアミノ酸配列を有するマウスα-アミラーゼの存在が予想されます。この場合、マウスα-アミラーゼは、免疫応答を起こすことのない免疫寛容状態で存在しますから、上記したとおりマウスα-アミラーゼのアミノ酸配列にヒトα-アミラーゼのアミノ酸配列が類似していると、マウスは、ヒトα-アミラーゼに対するモノクローナル抗体を産生しにくいと言えます。」(一頁ないし二頁答二)と記載されていることが認められる。

(d) さらに、甲第二〇号証によれば、旭川医科大学木村昭治助教授の鑑定書には、引用例の実験例について、「上記特許(注・引用例)に記載されたモノクローナル抗体を得るための必要条件は、唾液腺型(S型)α-アミラーゼと膵臓型(P型)α-アミラーゼで抗原決定基が異なり、しかもこの抗原決定基が、基質結合ドメイン内あるいはその近傍に存在し(ただし、抗体結合によって基質結合部の立体構造の変化をもたらす可能性があるので、この場合には、基質結合部位以外の部位も許されますが、この可能性は、小さいと思われます。)、さらにこの抗原決定基が、免疫される動物に効率的に抗体産生細胞を誘導できることです。今仮に、基質結合部位以外にS型、P型に共通する強い抗原決定基が存在し、両者の基質結合部に抗原決定基の差を生じる程のアミノ酸の違いがない場合、追試の様な結果になると思います。つまり、得られるモノクローナル抗体の大部分は、S型、P型両者に反応するが、酵素反応は阻害せず、S型に特異的に酵素阻害するモノクローナル抗体は、得られないと思います。なお、S型およびP型α-アミラーゼは、同一の酵素に分類されますから、両者の基質結合部は、同一または極めて類似していると予想されます。」(四頁ないし五頁答八)と記載されていることが認められる。

(e) 甲第二二号証によれば、木村助教授の鑑定書(その二)には、モノクローナル抗体における免疫方法の条件について、「モノクローナル抗体作成の成功の鍵は、融合されるリンパ球集団の中に目的とする抗体を産生する細胞がどれだけ高率で含まれているかによりますから、動物の免疫をいかにうまくやるかがポイントです。従って、免疫方法の違いは決定的であると言えます。免疫方法の条件には、抗原の形、その修飾、投与経路、投与間隔、アジュバンドの有無、アジュバンドの種類、免疫動物の種類、系統等が含まれます。」(一頁答一の一部)と記載されていることが認められる。

(f) 前記甲第二〇号証によれば、木村助教授の鑑定書には、前記<1>(a)及び(b)のシンプル教授及びナウヨークス博士が引用例の実験例の追試に成功しなかったことについて、次のように記載されていることが認められる。すなわち、

「科学論文の場合、報告どおりに追試を行って再現できない場合には、(イ)追試を行う者の技術が報告者に比べて未熟な場合、(ロ)実験の成立に決定的な条件が記載されていない場合、(ハ)間違った報告等の場合などが考えられます。」(三頁答六の一部)

「本件の追試で上記出願の結果が再現できなかった理由としては、クルト・W・ナウヨークスおよびアンリース・シンプルは、その経歴からして未熟とは考えられませんから、上記した(ロ)または(ハ)の場合が考えられます。確かに上記実験例でのモノクローナル抗体作成の条件は、抗原投与の回数および間隔、抗原の投与方法について必ずしも良いとは言えませんし、またその条件で本当に成功したとすれば、何か記載されていない決定的な条件があるのかもしれません。」(三ないし四頁答六の一部)

「シンプル博士は、和光の方法に準じ、S型α-アミラーゼに特異的なモノクローナル抗体の産生を試み、ハイブリドーマ七一六個中α-アミラーゼに結合する一七三個の抗体を得ましたが、これらの抗体の中でS型α-アミラーゼの酵素活性を特異的に阻害するものは一つもなかったと報告しています。また、ナウヨークス博士は、より強い抗体産生を誘導するために免疫方法を変更し(アジュバンドを水酸化アルミニウムに変更し、免疫回数を多くしました)、酵素活性阻害抗体を得るためにアミラーゼ阻害試験を抗体のスクリーニングに用いています。この方法で得たモノクローナル抗体は、S型をα-アミラーゼ九五パーセント以上阻止しましたが、P型(S型は誤記と認める。)α-アミラーゼ活性をも弱いながらも阻止する(交差阻止率二パーセント)と報告しています。以上二つの実験から推定できるのは、α-アミラーゼにおいてS型とP型では、抗原決定基を形成する領域に共通部が存在し、この部分が抗体との反応に常に部分的に寄与しているということです。逆に言えば、P型α-アミラーゼに交差反応を全く示さない、S型α-アミラーゼに特異的な阻害抗体を得るのは難しいと言うことです。」(五頁答九)

(g) 甲第二六号証の一によれば、大阪バイオサイエンス研究所長早石修博士(京都大学名誉教授)の鑑定書には、株式会社免疫生物研究所の追試実験について、「この程度の数で成功しなかったからといって、公報記載のモノクローナル抗体の作成方法によって、唾液アミラーゼ活性のみを特異的に阻害するモノクローナル抗体を再現することが絶対に不可能であると結論することは難しいと思います。しかし唾液アミラーゼと膵臓アミラーゼとは、同種の酵素ですからその一方のみを特異的に阻害するようなモノクローナル抗体の産生はかなり難しく、運が多分に作用し、上記公報記載の方法では偶然に成功したのかもしれませんし、膨大な実験例から極めて少数の成功例があったのかもしれません。さて、他の研究者が発表を読んで、その実験を再現することを追試といいますが、追試できない場合には、一、追試者自身の技術が拙劣であるのか、あるいは、二、発表論文の実験が誤りであるか、三、論文の記載が不十分であったり実験のコツを論文中に故意にまたはうっかり記載しなかったために追試できない場合があります。現在では、モノクローナル抗体の作成技術は一般化していますが、上記実験成績書に示されている実験結果は、上記公報中に実験の細部にわたる記載や特殊なコツが欠けていた可能性も考えられます」(本文一頁回答一の一部)と記載されていることが認められる。

(h) これらの記載によれば、唾液α-アミラーゼと膵液α-アミラーゼとは、同一の酵素であり、その活性部位の構造が同一又は極めて類似している可能性が高いこと等から、引用例に記載のような特異性の高いモノクローナル抗体を作成することは極めて困難なものであること、引用例には、引用例モノクローナル抗体産生過程に必要不可欠な条件が記載されていない可能性が高いこと、とりわけ、モノクローナル抗体の作成においては、試験動物における免疫の成否が重要であり、当該成否は、免疫条件(抗原の形・修飾、投与経路・間隔、アジュバンドの有無・種類、免疫動物の種類・系統等)により左右されるものであるところ、引用例には上記免疫条件等が十分記載されていない可能性が高いことが認められる。

<3>  引用例モノクローナル抗体が作成されたことを示す証拠の有無

引用例の実験例で作成された引用例モノクローナル抗体が、引用例の出願以降も存在することを示す証拠、又は引用例の記載に基づき、引用例モノクローナル抗体と同様の特異性を有するモノクローナル抗体を作成できることを示す追試例の証拠は、本訴において何ら提出されていない。かえって、甲第二七号証の一ないし三(和光純薬の書簡等)によれば、引用例の特許権者である和光純薬は、原告の代理人である品川弁護士からの引用例の実験例に記載されたハイブリドーマの分譲申し込みに対し、結局、これを拒絶していることが認められる。

<4>  引用例に記載された発明の完成の有無

本願第一発明に進歩性がないことの立証責任は被告にあるから、その進歩性がないことの根拠とされた引用例に記載された発明が完成していることの立証責任は、被告にあると解すべきところ、引用例に記載された発明が完成した発明であることを認めるに足りる証拠はない。かえって、上記<1>ないし<3>に説示したところによれば、限定的な条件を満たすモノクローナル抗体を産生するハイブリドーマを取得することは、再現性がない場合が多いことを考慮しても、引用例の実験例においては、試験動物の免疫に係る条件、態様が詳細かつ明確に規定されておらず、モノクローナル抗体作成につき技術と経験を有する引用例の実験例の追試者三名が、それぞれの追試時期(三つの追試のうち二つは、平成八年及び平成九年に行われたものである。)における技術常識及び技術水準に照らし、欠けている条件、態様を設定しても、引用例の実験例における試験動物の免疫態様と同様の免疫態様を再現することができなかったものであり、しかも、引用例モノクローナル抗体と同様の特異性を有するモノクローナル抗体を作成できることを示す追試例の証拠は、本訴において何ら提出されていないものであるから、引用例には引用例モノクローナル抗体の取得を可能とするために必要な詳細な反応条件、操作条件が記載されておらず、引用例に記載された発明は発明として未完成であると推認せざるを得ない。

<5>  被告の主張に対する判断

被告は、引用例に記載された発明のような微生物を扱う特殊な技術分野では、明細書の記載がいかに詳細を窮めてもなおかつ当業者が容易に実施をすることができないことがあるから、引用例の実験例の追試が成功しなかったことのみに基づいて、引用例に記載された発明が未完成であると断定することはできないと主張する。確かに、上記の点に限れば、被告の主張に一理はあるが、上記未完成であるとの推認は、単に引用例の実験例の追試が成功しなかったということのみに基づいてされたものではなく、前記<2>ないし<4>において説示したとおり、追試の回数、時期、内容及び追試者並びにモノクローナル抗体の再作成の困難性に照らしても、引用例には、引用例モノクローナル抗体を再作成するのに必要不可欠な条件が記載されていない可能性が高いこと、引用例の出願以降も引用例モノクローナル抗体が存在することを示す証拠がないこと等の諸事情も総合してされたものであるから、引用例に記載された発明の完成をいう被告の主張は理由がない。

さらに、被告は、原告は引用例につき無効審判請求をすることが可能であるのにその手続を行っていないことを引用例に記載された発明が未完成ではないことの理由の一つとして主張するが、この点は、上記推認を何ら左右する性質のものとは認められない。

(4) 結論

以上のとおり、引用例に記載された発明は完成されたものとは認め難く、かえって未完成であると推認されるから、審決が本願第一発明と引用例に記載された発明とを対比してした両者の一致点の認定(審決書六頁一〇行ないし二〇行)は誤りであり、したがって、本願第一発明は引用例に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるとの審決の判断も誤りである。

三  よって、原告の本訴請求は理由があるから認容することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する(平成一〇年九月一〇日口頭弁論終結)。

(裁判長裁判官 永井紀昭 裁判官 石原直樹 裁判官 市川正巳)

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